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蒼き焔の彼方に  1


「ねぇ、聖子。今年の社内旅行なんだけど、どうする?」

快晴だったその日、昼休憩に二人は会社の屋上で弁当を広げていた。
オフィス街から少し離れた場所にある会社のビルの周囲には目立った高層の建造物がなく、天気が良ければ上から燦燦と陽光が降り注ぐ。
少し強めの風さえ避けられれば、日光浴には絶好のロケーションだった。

話しかけられた聖子は持ち上げかけた箸を止め、ベンチの隣に座る佳奈を見た。
「社内旅行?」
「そう。今年は国内なんだって。それも日本海側のどこかの温泉つきリゾートホテル。去年までとは大違いよね」

ここ数年、社内旅行は近距離の海外に行くのが通例となっていた。数年前に沖縄に行った年もあったと聞くが、それ以来、国内の、それも近場に行くと聞いたのは入社以来初めてのことだ。
「今年は景気が悪いこともあって、会社からの補助が出ないんだって。だから積み立てだけで行ける場所を選んだみたい。みんな、追い金払うの嫌がるからね」
昨年は韓国、確か一昨年は香港に行ったはずだ。佳奈はどちらも参加しているので、余計にその落差を感じるのだろう。しかし聖子には始めから縁のない話で、未だ誘いの声さえどこからもかかっていない。

「ねぇ、一緒に参加しない?」
「ああ、でも、私そういうのあんまり得意でないから…」
聖子は持参した弁当を口に運びながらそう答えた。
彼女は昨年も、入社したてだった一昨年も旅行には不参加だった。
「今回は近場だから。ほら、新幹線とバスだけで、飛行機とか全然使わないし」
佳奈の誘いに、聖子は内心溜息をついた。
今まで参加を断るのに使ってきた理由は飛行機嫌いだったが、今回のような近距離の国内旅行では、それも使えそうにない。
「観光地とか、人の多い場所って好きじゃないのよ」
「でも、わりと鄙びた静かな温泉街らしいし、自然が豊かだっていうから、聖子の趣味にぴったりじゃない?」
確かに彼女の趣味はトレッキングで、緑が多い場所は嫌いではない。だが、私生活ではできるだけ同僚たちとも距離を置きたいと思っている聖子には、行き帰りの道中だけでも煩わしさを感じてしまうのだ。

「一応現地のガイドさんもオプションで頼めるような山歩きの散策プランもあるみたいだし。ねぇ、行こうよ」
「いやに積極的に誘ってくれるけれど、一体何があるの?理由を隠さずに話すんだったら考えてみる」
「あ、やっぱりバレた?」
佳奈は、ばつの悪そうな顔をしてぺろりと舌をだした。
「実は今年、ウチの課の森先輩が旅行に幹事になってるんだ。でも集まりが悪くってさ。それで何とか最低人数だけでも確保しないといけないって、今躍起になってあちこち声をかけてる」
「森主任?」
営業課の森は彼女たちの3年先輩にあたる。人当たりが良く、女性にも人気がある主任だ。聖子は面と向かって話をしたことはないが、廊下やエレベーターですれ違っても気軽に挨拶をしてくれる感じの良い男性だった。

「で、何で佳奈がその手伝いをしているわけ?」
「あ、実は…その、ちょっと前から森さんと…」
佳奈は頬を赤らめながら、ぼそぼそと呟く。
「へぇ、それは初耳だな」
少し意地悪くにんまりと笑ってやると、佳奈がぷっと頬を膨らませる。
「だって、言えなかったんだもん。恥ずかしくて」

佳奈のこういうところは同性ながら可愛く見えてしまう。日頃は周囲に対して壁を作って生きている聖子だが、同僚の中で唯一友人と呼べる存在の佳奈にだけはどうしてもガードが甘くなってしまうのだ。


隣にいる佳奈とはこの会社に来るまで一切面識がなかった。もちろん学校も出身地もまるで接点がない。
入社式の日に控え室で偶然隣り合わせに座ったのが縁で知り合ったのだが、人見知りの強い聖子にしては、佳奈とは驚くほどすぐにすんなりと打ち解けて話が弾んだ。それ以来、研修期間もしばしば行動を共にするようになり、今では配属された部署が分かれたが、変わらず友人として付き合っている。

今二人は入社してから3年目。
社内でも知り合いが多く、明るく世話好きで活発な性格の佳奈と、できるだけ人との付き合いを避けているせいで、内気で内向的と思われている聖子。この対照的な二人が、仲良く連れ立って歩いているところを同僚たちに不思議そうに見られていることは、彼女たちもよく分かっていた。

だが佳奈からすれば、それは決しておかしなことではない。彼女から見た聖子は内気でも内向的でもなく、ただ人付き合いが苦手なだけの物静かな普通の女性だ。
ただ一つ、気になることがあるとすれば、聖子と一緒にいると、しばしば説明しがたい現象に遭遇することだろうか。しかし、今までそれが良い方に作用したことはあっても、災いとなったことは一度もないし、大体その原因が絶対に聖子にあるとは彼女も言い切れない。
総じて聖子は佳奈にとって良き同僚であり、気の置けない友人でもあった。


「うーん、参加するかどうか考えてみる。返事は明日でもいい?」
食べ終えた弁当箱を袋にしまい、手提げバッグに入れると、聖子は先に立ち上がった佳奈を見上げた。
「うん、よろしく。一応森先輩には声掛けたって伝えておくね」
「分かった」
「いい返事を待ってるよ。あっごめん、私今週洗い物当番だから、先に降りてる」
空になった弁当箱を振り回しながら戸口を目指した佳奈の背中に、聖子が声をかける。

「佳奈。お湯に気をつけてね。ガスとか、つけっ放しにしちゃダメだよ」



休憩の後、佳奈はオフィスの廊下を給湯室に向かって走っていた。
一足先に屋上から戻ってきた彼女は午前中に来客が使ったコーヒーセットを洗って片付けた。その際一緒に社員用の麦茶を沸かしていたのを、上司から頼まれた用事をしているうちにすっかり忘れていたのだ。
「きゃっ、大沸騰!」
大きな薬缶に一杯だった水は沸騰してあたりに吹き零れ、給湯室は湯気でむんむんしていたが、発見が早かったため何とか空焚きは免れたようだ。
急いで窓を開け、換気扇を回して湿気を逃がしながら、ほっと胸を撫で下ろした佳奈は、半分くらいまで蒸発してしまった薬缶の水を見つめた。

何で聖子には分かったんだろう…?

彼女がいるのは総務課のある1階のフロア。佳奈のいる営業課とはまったく接点のない場所のはずだ。それなのに、聖子は自分が湯を沸かすことを予見し、警告してくれた。それも薬缶を火にかけるずっと前に。

今だって、彼女が言った唐突な言葉が頭の隅に引っかかっていなければ、もしかしたらこのままボヤ騒ぎになっていたかもしれないのだ。

「あ、でも彼女勘がいいから、きっと何か虫の知らせでもあったのね。私そそっかしいから」
佳奈は薬缶に水を足すと、改めてコンロにかけて火をつけた。
「今度は大丈夫。沸くまでちゃんと側で見ているからね」


自分のデスクで仕事に追われる聖子は、上階でそんなことが起きたことなど知る由もない。
ただ、彼女の中にあった漠然とした不安がある時を境に晴れたことだけは、確かに感じられたのだった。




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